いまはもう深く懐かしき、遥か昔の時代のこと。
明治という時代の終わり、大正の始まり。
進学に際し上京した下宿先の親類の屋敷の奥には、美しい彼が住んでいた。
◇
「今日からお世話になります、叔母さん」
「ふふ、そうかしこまらなくて良いのよ。随分立派になって……自慢だわあ、私の血筋からお医者さまが生まれるなんて!」
「……頑張ります」
父の一つ下の妹である御堂(みどう)の叔母は優しいがやたらと身なりや身分を気にする気配がある。そこへやって来た帝大生の甥と言う肩書は、そんな叔母にとってよっぽど誇らしいことのようだった。
東京の端、未だ古き時代の香りを漂わせながら佇んでいる”御堂の屋敷”、叔父は仕事に忙しい人だったため滅多に帰宅はしないようだった。
「隆幸(たかゆき)さん、これだけは約束よ。母屋の端の部屋にだけはいかないでくださいませね?」
いつだってにこにことご機嫌な叔母が、その時だけ冷たく蛇のような赤い目をして囁いた。
東京の夜は故郷の静けさとは違い、何処からか喧騒が聞こえてくるよう。この街は騒がしすぎる。眠れぬけだるさに寝返りを打つと、どこからか男のくぐもった咳が聞こえてくる。この家には叔母と女中しかおらぬはず。叔父の帰宅か? それにしては遠い。
昼間の叔母の言葉を思い出した、”母屋の端の部屋には……”。
かからわないでおこう、しかし咳は心配するほどやむことがなく眠れない感情は、その咳の主が誰か気になって仕方がなかった。
廊下を音をたてぬように静かに歩む、漆黒のさきには襖の隙間から薄明りが漏れている。
再びあまりに部屋の主が酷い咳をするものだから、そっと襖に手をかける。
「あ……」
まるで自分とは正反対の金色の髪の長い二十歳前後の青年。白い肌に大きな青の瞳、まるで西洋人形のように美しい。
「だれ……げほっ、ごほごほんっ」
「大丈夫か?」
「すぐ、すぐに落ち着くから……」
さすった背中は骨ばんで薄い、男同士だとはわかっているがその青年に対して庇護欲がわく。儚い青年、叔母には子どもなんていなかったはず。ましてやこんな金色の髪。
「僕は鬼の子だよ、勇ましいお兄さん。名前は?」
「比留間隆幸(ひるまたかゆき)」
僕は、”美青(みお)”、自分を呼ぶのならそう呼んでほしいと彼は言った。
◇
あれからすぐに美青とは別れて、自室で眠れぬ朝を迎えた。学生服に着替えて叔母ととる朝食の頃、昨夜会った美青について聞きたかったが、叔母に無断であの部屋に行ってしまったとわかればきっと彼女は気分を害するだろう。見る限り美青はこの世界から遮断されている。
「隆幸さん、食欲がないの?」
「いえ……少し眠れなかっただけで」
「ふふ、慣れない土地で考えることでもあったのかしら?」
忘れようとすればするほど美青の姿が頭から離れない。多分禁忌、彼は一体何者なのか。
◇
「隆幸さま、おかえりなさいませ」
夕刻、帰宅をすれば玄関前で一人の女中が掃き掃除をしていた、何処からかまたあのくぐもった咳が聞こえる。そっと美青の部屋の方角を向くと、女中は小さな声で囁いた。
「関わらぬ方がよろしいですよ」
「え?」
「あの方は、この世に生きていてはならぬお方ですから……」
美青のことを知っている、忠告を残し女中はほうきを持って消えて行った。
想いが募る、俺は一体どうしたら良い?
◇
ひとめ見てしまえばもう気になってしょうがない。
そして美青の魔性の魅力は、今夜も俺をあの部屋へと誘う。
「やあ、また来てくれたんだね」
深夜、皆が寝静まったのを確認して、再び美青の部屋へ。
狭く薄明りの小さな部屋、日常からは隔離されまるでこの世の秘境のよう。
美青の笑顔が崩れ、また嫌な咳をする。
「大丈夫か?」
「……罪だよ」
「え」
「この病んだ身体はこの世に生まれてはならなかった僕の罪だ」
美青とお互いに見つめ合う、青い瞳の奥に自分が映っている。魔性に見せられた愚かな俺の顔だった。
「……ではそんなお前に想いを寄せる俺も罪人なのか」
「隆幸さん?」
美青は俺の名を覚えていることに驚く。
俺にとっての恋の始まりだ、美しく儚い美青に惹かれて……。
手を伸ばしてその柔らかなくちびる触れたらもう戻れない、くちづけをしてため息。少し熱っぽい美青を感じて、俺の心も熱くなった。
◇
恋とはどういうものなのだろう。
出会って人となりを知って、それから?
気が合うとか合わないとか、麗しい容姿と地位と身分?
いや、そう言う段階を踏まなかった、美青と俺は禁断の場所で出会ってはいけない出会いをした。
「こんな姿を自分の産み落とした子どもだなんて言われたら誰でも驚くだろう、”母さん”は鬼の子と僕を揶揄した」
「叔母さんか?」
「金色の髪と青い目に覚えはなかったってさ。それからが僕の十七年だ」
自らとは違いすぎる容姿をした子どもに恐れおののいた叔母は、美青を生後すぐこの部屋に隠した。殺して罪人になるわけにはいかない、自らの身分を愛し美青から目をそらす。
「親からの愛も知らないし、友人なんて出来るはずはない。それが孤独というのだろうか、ねぇ、隆幸さんは友人も恋人もいるのだろう?」
「恋人なんて出来たことはない。友人らも皆別れて来た、東京行きが決まったその日に」
懐かしい故郷、優しい人たち。
愛情を与えてくれたかの地は知識もつかぬし勉学にも向かない。夢と愛情を天秤にかけて俺は東京と言う夢を選んだ。
「……げほっ、こん、ごほ」
「大丈夫か?」
「……隆幸さんと離れたくない」
細い背中を折りしばらく咳き込んだのち、美青の細い手が俺の袖をつかむ。
「ここで生きて行くと言うのなら、どうか僕を連れ出して。初めてなんだ、隆幸さんを思うと心が熱くなる」
ああ、いつのまにか、俺たちは同じ思いを抱えてしまって……。
◇
ひそやかに愛し合う日が続いていた。
昼は学校で医学を学び、夜になれば美青のもとへ。
美青は良く笑うようになった、時折の冗談に声をこらえながら抱き合って。
幸せの形は少しずつ明確になって行く、いつか二人で暮らそうなんて秘密を打ち明けるように夢想した。抱き合って横になればお互いの体温を感じている。
「ごほっ、けほ、……」
「その咳、医者にはかからないのか?」
近頃では美青が日々弱って行くのが恐ろしくて仕方ない。
愛情が心から溢れてしまって、ああどうか彼を失いたくはないと。
「医者になんてかかったら僕のことが公になってしまう。あの人は僕を見捨てたんだ、いままで生きてきたことの方が奇跡なんだよ」
「美青……」
なんて儚い笑い方をする、俺は知識だけはあった。
病の影、不治の病かもしれないと。
「美青、俺はお前がいないと生きてはいけないよ……」
ああ、俺はなんて弱い人間になってしまったのか。浮かんでくる涙を忘れようと瞼をぎゅっと閉じた時だった。
「……そこで何をしているの?」
薄明かりに、立ち尽くす女。
「あ……」
「”その子”と何をしているかと聞いているのよ、隆幸さん……!」
鬼なのは美青ではない、顔を歪ませた叔母の方だった。
その手に持っていたろうそくが落ち畳を転がって行く、叔母は美青の着物を掴んで突き飛ばした。
「忌まわしい子……! どうしてまだ生きているの?!」
「美青!」
壁に叩きつけられ、小さくうめく美青を慌てて抱き寄せた。
「……美青に触るな」
「隆幸さん? 何を言っているの、その子はこの世にはいない子よ。あなたもさっさとこの部屋から出て行きなさい!」
「嫌だ!」
ろうそくの火が布団から襖へと燃え移る。火に囲まれる前に美青を背負って廊下へ飛び出した。背後からは炎と鬼と化した叔母が追いかけてくる。長い爪が美青の金髪を掴み、背中になんらかの衝撃があった。背負っていた美青が崩れ落ちる。
床には血だらけの刀が音を立てて転がっていた。
屋敷を伝う火の回りが早い、女中らの悲鳴が響き叔母は狂気の声で笑いつづけている。
「美青……!」
そしてその日の夜半過ぎ、御堂の屋敷は無残にも崩れ焼け落ちた。
◇
高台の向こう、東京の街をのぞむ。
淡い血のように赤い太陽が闇を少しずつ拭って行く。
「……なあ、夜が明けるよ美青」
背負ってはいるものの何も答えぬ美青、ぐったりと力なくまるで静かに眠ってしまったよう。
「君が見ることのできなかった一日の始まりだ」
もう誰も俺たちの中を咎めることはない。
この心はいつだって美青とともにあるから。
ああ、それでも美青は未だ目を開けぬまま……。
この東京の街の夜明け、儚い恋情と生と死に解放された自由がそこにはあった。
明治という時代の終わり、大正の始まり。
進学に際し上京した下宿先の親類の屋敷の奥には、美しい彼が住んでいた。
◇
「今日からお世話になります、叔母さん」
「ふふ、そうかしこまらなくて良いのよ。随分立派になって……自慢だわあ、私の血筋からお医者さまが生まれるなんて!」
「……頑張ります」
父の一つ下の妹である御堂(みどう)の叔母は優しいがやたらと身なりや身分を気にする気配がある。そこへやって来た帝大生の甥と言う肩書は、そんな叔母にとってよっぽど誇らしいことのようだった。
東京の端、未だ古き時代の香りを漂わせながら佇んでいる”御堂の屋敷”、叔父は仕事に忙しい人だったため滅多に帰宅はしないようだった。
「隆幸(たかゆき)さん、これだけは約束よ。母屋の端の部屋にだけはいかないでくださいませね?」
いつだってにこにことご機嫌な叔母が、その時だけ冷たく蛇のような赤い目をして囁いた。
東京の夜は故郷の静けさとは違い、何処からか喧騒が聞こえてくるよう。この街は騒がしすぎる。眠れぬけだるさに寝返りを打つと、どこからか男のくぐもった咳が聞こえてくる。この家には叔母と女中しかおらぬはず。叔父の帰宅か? それにしては遠い。
昼間の叔母の言葉を思い出した、”母屋の端の部屋には……”。
かからわないでおこう、しかし咳は心配するほどやむことがなく眠れない感情は、その咳の主が誰か気になって仕方がなかった。
廊下を音をたてぬように静かに歩む、漆黒のさきには襖の隙間から薄明りが漏れている。
再びあまりに部屋の主が酷い咳をするものだから、そっと襖に手をかける。
「あ……」
まるで自分とは正反対の金色の髪の長い二十歳前後の青年。白い肌に大きな青の瞳、まるで西洋人形のように美しい。
「だれ……げほっ、ごほごほんっ」
「大丈夫か?」
「すぐ、すぐに落ち着くから……」
さすった背中は骨ばんで薄い、男同士だとはわかっているがその青年に対して庇護欲がわく。儚い青年、叔母には子どもなんていなかったはず。ましてやこんな金色の髪。
「僕は鬼の子だよ、勇ましいお兄さん。名前は?」
「比留間隆幸(ひるまたかゆき)」
僕は、”美青(みお)”、自分を呼ぶのならそう呼んでほしいと彼は言った。
◇
あれからすぐに美青とは別れて、自室で眠れぬ朝を迎えた。学生服に着替えて叔母ととる朝食の頃、昨夜会った美青について聞きたかったが、叔母に無断であの部屋に行ってしまったとわかればきっと彼女は気分を害するだろう。見る限り美青はこの世界から遮断されている。
「隆幸さん、食欲がないの?」
「いえ……少し眠れなかっただけで」
「ふふ、慣れない土地で考えることでもあったのかしら?」
忘れようとすればするほど美青の姿が頭から離れない。多分禁忌、彼は一体何者なのか。
◇
「隆幸さま、おかえりなさいませ」
夕刻、帰宅をすれば玄関前で一人の女中が掃き掃除をしていた、何処からかまたあのくぐもった咳が聞こえる。そっと美青の部屋の方角を向くと、女中は小さな声で囁いた。
「関わらぬ方がよろしいですよ」
「え?」
「あの方は、この世に生きていてはならぬお方ですから……」
美青のことを知っている、忠告を残し女中はほうきを持って消えて行った。
想いが募る、俺は一体どうしたら良い?
◇
ひとめ見てしまえばもう気になってしょうがない。
そして美青の魔性の魅力は、今夜も俺をあの部屋へと誘う。
「やあ、また来てくれたんだね」
深夜、皆が寝静まったのを確認して、再び美青の部屋へ。
狭く薄明りの小さな部屋、日常からは隔離されまるでこの世の秘境のよう。
美青の笑顔が崩れ、また嫌な咳をする。
「大丈夫か?」
「……罪だよ」
「え」
「この病んだ身体はこの世に生まれてはならなかった僕の罪だ」
美青とお互いに見つめ合う、青い瞳の奥に自分が映っている。魔性に見せられた愚かな俺の顔だった。
「……ではそんなお前に想いを寄せる俺も罪人なのか」
「隆幸さん?」
美青は俺の名を覚えていることに驚く。
俺にとっての恋の始まりだ、美しく儚い美青に惹かれて……。
手を伸ばしてその柔らかなくちびる触れたらもう戻れない、くちづけをしてため息。少し熱っぽい美青を感じて、俺の心も熱くなった。
◇
恋とはどういうものなのだろう。
出会って人となりを知って、それから?
気が合うとか合わないとか、麗しい容姿と地位と身分?
いや、そう言う段階を踏まなかった、美青と俺は禁断の場所で出会ってはいけない出会いをした。
「こんな姿を自分の産み落とした子どもだなんて言われたら誰でも驚くだろう、”母さん”は鬼の子と僕を揶揄した」
「叔母さんか?」
「金色の髪と青い目に覚えはなかったってさ。それからが僕の十七年だ」
自らとは違いすぎる容姿をした子どもに恐れおののいた叔母は、美青を生後すぐこの部屋に隠した。殺して罪人になるわけにはいかない、自らの身分を愛し美青から目をそらす。
「親からの愛も知らないし、友人なんて出来るはずはない。それが孤独というのだろうか、ねぇ、隆幸さんは友人も恋人もいるのだろう?」
「恋人なんて出来たことはない。友人らも皆別れて来た、東京行きが決まったその日に」
懐かしい故郷、優しい人たち。
愛情を与えてくれたかの地は知識もつかぬし勉学にも向かない。夢と愛情を天秤にかけて俺は東京と言う夢を選んだ。
「……げほっ、こん、ごほ」
「大丈夫か?」
「……隆幸さんと離れたくない」
細い背中を折りしばらく咳き込んだのち、美青の細い手が俺の袖をつかむ。
「ここで生きて行くと言うのなら、どうか僕を連れ出して。初めてなんだ、隆幸さんを思うと心が熱くなる」
ああ、いつのまにか、俺たちは同じ思いを抱えてしまって……。
◇
ひそやかに愛し合う日が続いていた。
昼は学校で医学を学び、夜になれば美青のもとへ。
美青は良く笑うようになった、時折の冗談に声をこらえながら抱き合って。
幸せの形は少しずつ明確になって行く、いつか二人で暮らそうなんて秘密を打ち明けるように夢想した。抱き合って横になればお互いの体温を感じている。
「ごほっ、けほ、……」
「その咳、医者にはかからないのか?」
近頃では美青が日々弱って行くのが恐ろしくて仕方ない。
愛情が心から溢れてしまって、ああどうか彼を失いたくはないと。
「医者になんてかかったら僕のことが公になってしまう。あの人は僕を見捨てたんだ、いままで生きてきたことの方が奇跡なんだよ」
「美青……」
なんて儚い笑い方をする、俺は知識だけはあった。
病の影、不治の病かもしれないと。
「美青、俺はお前がいないと生きてはいけないよ……」
ああ、俺はなんて弱い人間になってしまったのか。浮かんでくる涙を忘れようと瞼をぎゅっと閉じた時だった。
「……そこで何をしているの?」
薄明かりに、立ち尽くす女。
「あ……」
「”その子”と何をしているかと聞いているのよ、隆幸さん……!」
鬼なのは美青ではない、顔を歪ませた叔母の方だった。
その手に持っていたろうそくが落ち畳を転がって行く、叔母は美青の着物を掴んで突き飛ばした。
「忌まわしい子……! どうしてまだ生きているの?!」
「美青!」
壁に叩きつけられ、小さくうめく美青を慌てて抱き寄せた。
「……美青に触るな」
「隆幸さん? 何を言っているの、その子はこの世にはいない子よ。あなたもさっさとこの部屋から出て行きなさい!」
「嫌だ!」
ろうそくの火が布団から襖へと燃え移る。火に囲まれる前に美青を背負って廊下へ飛び出した。背後からは炎と鬼と化した叔母が追いかけてくる。長い爪が美青の金髪を掴み、背中になんらかの衝撃があった。背負っていた美青が崩れ落ちる。
床には血だらけの刀が音を立てて転がっていた。
屋敷を伝う火の回りが早い、女中らの悲鳴が響き叔母は狂気の声で笑いつづけている。
「美青……!」
そしてその日の夜半過ぎ、御堂の屋敷は無残にも崩れ焼け落ちた。
◇
高台の向こう、東京の街をのぞむ。
淡い血のように赤い太陽が闇を少しずつ拭って行く。
「……なあ、夜が明けるよ美青」
背負ってはいるものの何も答えぬ美青、ぐったりと力なくまるで静かに眠ってしまったよう。
「君が見ることのできなかった一日の始まりだ」
もう誰も俺たちの中を咎めることはない。
この心はいつだって美青とともにあるから。
ああ、それでも美青は未だ目を開けぬまま……。
この東京の街の夜明け、儚い恋情と生と死に解放された自由がそこにはあった。
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