あの日、雪の中の交差点。捨てるはずだったこの命を拾い上げてくれた人がいた。黒髪高身長……無愛想な表情。でもその彼から発せられた言葉といえば。

「どこにも行く場所がないのなら、うちにいくらでもいると良い、部屋の数だけはあまっているから」



「……あの、はるゆきさん。僕に出来ることはありませんか?いくらなんでも生活費から何から面倒見てもらうわけには」

都内でも有数の高級マンション、その部屋は整えられて新築モデルルームを思い起こさせた。

「別に気を使う必要はない、みつばは好きなことでもして過ごせばいいよ。日常生活に困っていることはないから」

その言葉通り、多分清掃とかは業者に頼んでいるのだろう。食事は、多分外食が多いのかもしれない。だってキッチンには電子レンジすらなかったから。困ってはいない、と言っても。

……料理かあ。



「鍋?」
「そう、鍋です。フライパンとか炊飯器とか!」
「何に使うんだそんなもの」
「何って、ご飯。ご飯を家で食べませんか?外食よりは健康にも良いと思うんですけど……」

はるゆきさんはお小遣いはいくらでもくれるというから、僕は料理道具をお願いしてみた。それくらい、この家のキッチンに生活感はない。
不思議そうな彼にもらったお小遣いで、近所のスーパーマーケットでフライパンから包丁まて買い揃える。両手に抱えて帰宅してみたら、彼は仕事に出かけたようだった。
料理が得意、というわけではない。ただ、僕がいままで生きてきた場所では、料理番まがいのことをしてきたから。誰も手に負えない少年のために家事を尽くす。思えば変な話だ、血の繋がりのない僕が、実質彼の唯一の家族のようなものだったなんて。
少年は与えられた部屋で僕と一緒に行動した。時折刃物を振り回しては、自分の名前を書くように僕の身体に傷をつける。それが僕と彼の八年で、奇妙な生活だったと思うしかない。もっと早く僕は逃げ出したからよかったかな。でも、今日このタイミングでしか、はるゆきさんとは出会えなかった。はるゆきさんを思うと、なんだか心が温かくなる。

「これはなんだ、みつば」
「野菜の煮物とぶりの照り焼き。ワカメのお味噌汁とキャベツの浅漬けです」
「取材旅行に行った時の町の食堂で見るな、これはどこから買ってきたんだ?」
「材料はスーパーマーケット、あとは僕の手作りです。お口に合うかわかりませんが……」

手作り、美味しいと思うか思わないかは本当に運と好み次第で、はるゆきさんには僕の料理はあわないかもしれない。祈りに似た気持ちで彼を見る、それにしても基本無表情な人みたいだから美味しいのかまずいのか……。

「あ、あのー、やっぱりお口に合いませんよね?僕も誰かに教わったとかじゃない自己流ですから無理して食べなくて構いませんよ。美味しいものは人それぞれです」

はるゆきさんは僕をちらりとみて、ゆっくりと咀嚼してため息をつく。僕は怖くなって思わず下を向いた。そうは言ってもまずいって言われたら、他に僕の出来ることはない。出て行けって言われたら……出て行くしかない。

「……い」
「えっ、はい?」

まずい?
まずくない?
慌てて顔を上げて彼の目を見る。険しい目が僕をみて……笑った。

「美味しいよ、みつば。家で手作り料理を食べるなんて子供の頃以来でね、お前の料理は嫌いじゃない。気が向いたらまた何か作ってくれないか?」
「えっ……は、はい。あ、ありがとうございます!」

僕を受け入れてくれた人、とりあえずまだ僕はここにいても良いらしい。



夜眠るときははるゆきさんのダブルベッドを一人で僕が使っている。一方ソファにははるゆきさん。体格からして明らかに僕の方が小柄なのだから、彼が本当はベッドを使うべきなのだ。そう毎日繰り返すけれど、彼はするりと僕の言葉を抜けて行く。なんでだろう、僕の匂いがするベッドなんて使いたくはないとか?そう思ってはるゆきさんの留守にシーツを変えて綺麗にセッティングしたのだけれど……。

「別に構わないって言っただろう、俺はどこで寝ることも慣れててね、ほら、撮影の仕事は一瞬を逃すことで全てが終わってしまうからな。ちゃんと寝てるし身体も痛くない。気にするな」

気にするなと言われるとさらに気になるではないか。そこで僕はその件に関する最終的な案を提案する。ドキドキして、少し言いづらい、だけど。

「あのう……はるゆきさんさえ嫌ではなければ、その……ですね……」



一緒にベッドで眠りませんか。

それは大変勇気のいる言葉だった。だってまだお互いにお互いを知らない。はるゆきさんは、最近話題のフォトグファー、主に風景の写真を撮っていて僕も街角のポスターでかつて彼の撮った作品を見ていた。その見た目が怖いが案外優しいところもある。かたや僕は家出の挙句、道路に飛び出し死を選ぶ寸前に拾われた。なぜそんなことをしようとしたのか、その時の細かい理由においてはなんとなくしか話していない。つまり、お互いにまだお互いを知らないのだ、だからそれをして、一緒の布団で寝る、と。まったくもって、変な話。恋仲ならば理解できないこともないけど。

恋?
恋かあ……。

対人関係は苦手だ。またもてあそばれて傷をつけられるんじゃないかって。けれど、不思議とはるゆきさんに対する嫌悪感はないんだ。いま一つのベッドで背中合わせで眠ってしまった彼について。そっと起き上がって彼の顔をまじまじと見る。眉のシワは眠っていてもそのままなのか……大きくて筋肉質の手は布団の上に、仕事をしている男の手だ。男としても僕の多少肌荒れをしているペラペラの手とは正反対で。

そう、男同士。
恋とか言っている場合ではない。僕らが恋に落ちるには最大の壁があった。こうして彼が気になっているのは僕だけで、はるゆきさんからすれば、僕はただの家出少年。そろそろ帰るだろうと、思っているからこそ優しくしてくれるのかもしれない。口には出さないけどはるゆきさんが優しい人だってことはこの共に過ごす日々で感じていたから。

「眠れないか、みつば」
「……ひぇっ!あ、あの、すみません」
「何を、別に謝ることはないだろうが」

はるゆきさんが僕をの方を向いた。窓の外は雪が降っていて今日は寒い一日だったとその時気付いた。

「あ、あの」
「寒いよなあ、……おいで」
「え、え?」
「たった三十センチの距離だよ、いまさら人見知りでもするか?」

人見知りがどうとかの距離ではない。まだ知り合って浅い人、そんな二人が肌を合わせて眠るなんて……。

はるゆきさんの腕が伸びて、僕を抱き寄せ耳元で囁く。

「お前随分と冷たい手をしているんだな、みつば……」
「は、はる……んっ!」

冷たい肌をしているのは彼の方だ。ぼくのくちびるに触れた彼のくちびる。冷たくて、でもやわらかい。

「はるゆきさん……」

嫌いな相手にはしない行為、それをいま、僕に……これは、これははるゆきさんもしかして。

加速するのは僕の感情だ。急にはるゆきさんを意識しだしたこの心。はるゆきさんのことが嫌い?いや、嫌いじゃない。
どうしよう、きっと顔は赤くなってる。夜の闇が隠してくれてよかった、だって恥ずかしい。小さな子どもではない僕が、初めてのキスにこんな浮かれているなんて。どうかこの胸の鼓動が、はるゆきさんに聞こえませんように。



結局、眠れない朝を迎えてしまった。
僕を抱き寄せキスをしたはるゆきさんは、それ以上をすることもなく静かに寝息をたてて眠ってしまった。肌と肌がくっついて、僕は上手く息することも出来ない。はるゆきさんは、いい匂いがする。それを意識するだけで、眠るどころではなかった。夜が明けて朝日に照らされたはるゆきさんの顔、眉が寄ってるのはもともとそういう顔なのだと。少しかわいいなって笑ってしまった。この人を知りたい、だって僕を抱き寄せキスをした、その感情の理由は何かはっきりと聞いてなかったから。

「朝ごはんでも、作ろ……」

そっと身体を離してベッドから起き上がる、未だ眠っているはるゆきさんを起こさないように。

キッチンの明かりをつけて真新しいフライパンで目玉焼きを作ることにした。ベーコンもハムもあるけれど、はるゆきさんはどっちが好きなんだろう。
まずは小さなことから、彼との関係はまだ始まったばかりなのだから。



「えっ、一週間……ですか」
「ああ、東北から北海道を巡ろうと思ってね」

はるゆきさんの仕事の話だ。撮影旅行を一週間、僕はお留守番で一人になる。

「いいものやるよ」
「えっ、ああ、これ……」

それは真新しいスマートフォンだった。携帯電話すら持ったことはない、僕に彼からのプレゼント。

「この家で一人も寂しいだろう、出られるかわからないが寂しかったら電話しておいで」
「そんな、こんな高価なもの受け取れません!」
「……俺が寂しいんだよ」
「は、……」

そんな言葉をまた、僕の目を見て言うなんて。顔が赤くなってしまって恥ずかしい僕は、思わず目をそらして下を向いた。そんな僕を笑わずに彼は大きな手で僕の伸ばしっぱなしのボサボサの髪を撫でた。

「遠慮はいらない、お前のことをもっと知りたいんだ。それが理由じゃ駄目か?」



いってらっしゃいを言って二日が経過した夜。はるゆきさんからの連絡は来ない。忙しいのだろう、だって彼は仕事で行ったのだから。今頃どうしているのだろう、彼の作品は夜の風景も多いから今頃撮影をしているのかもしれない。

「邪魔は出来ないよね……」

寂しかったら電話しておいで、そうは言っても僕から連絡なんて。でも、寂しくないと言ったら嘘になりますはるゆきさん。

メールをする勇気すらない。タイミングが悪くて言葉の意味を違えてしまう、それが僕にとって一番の心配ごとで、結局のところ寂しいけど嫌われたくないから連絡できない。
そうしてただ、僕は鳴りもしないスマートフォンを見てベッドの上で一人過ごすのだ。

「お前だけが幸せになるなんて許さないよ」
「……っ?」

聞き覚えのある声、はるゆきさんではない。僕の身体に傷をつけて笑っていた、"梓"だ。

「ねーなにそれ、スマホ?贅沢なもの持ってさ、誰から連絡待ってるわけ」
「……」

これはきっと悪い夢だ、ここははるゆきさんの家、はるか離れたこの東京の地にいま梓がいるわけがない。

「いいご身分だな、おれを捨てて好きなことだけして過ごしてさ」
「……」

梓がベッドの上に乗る僕を見下ろし、嫌悪感でいっぱいの顔をして。

「何か言えよ」
「……」
「何か言えっての!みつばァ!」

夢だ、夢なんだ。だってここにいるはずのない人。だって梓はあの日……。

「……なあ、みつば。おれが死んで、嬉しかった?」



日も暮れる前から酒にタバコにはしゃいでいる未成年の梓と友人らのいる部屋を通りすがった。笑い声が耳に響く、梓の蛇のような目が僕を見つけ、わざとグラスに入ってたチューハイをかけた。べたべたとした香りが鼻に付く。目を合わさないでいたら、彼はそれが気に入らないようで僕の首を掴んで壁に叩きつけた。

「出てけば?」
「……え」
「お前もういらないよ、みつば。好きなところに消えていいや、飽きちゃった」

梓は知っている。僕がこの家を出たらどこにも行く場所がないってことを。
けれど、僕はもう疲れてしまった。わがまま放題で僕に身の回りの世話をさせる梓。これ以上彼の束縛が続くのなら、いっそのことここを出てもいいのかもしれない。

梓は僕から手を離して再び友人らと遊び始める。僕はそっと自室に帰り、少しの現金と防寒具をカバンに詰めて……。

梓は気づかなかった、僕は静かに家を出る。空からは珍しい雪が降っている、こんな南国の地には珍しい雪が……次第に雪が滲んでいって、僕は静かに涙を流していた。もうおわり、束縛された生活も、どこにも居場所のなかった僕の人生も……。

さようなら、の意味を込めて梓の家を振り返った、その瞬間だ。地上の花火が爆発するように、爆音とともに一気に梓の家から火が噴き出した。思わず驚いた僕はその場に座り込む。

不慮の事故だった、あと数分家を出るのが遅かったら僕もまきこまれて……。

「あ、ああ……」

生と死はこんなに近いもの。
僕をおいて、人生は速度を速め進んで行く……。



「ひっ、あ……あっ!」

ひどく汗をかいて飛び起きた。息が苦しく両手が震えている。家を出てから初めてのことだ、梓が夢に出てくるのは。
全ての不幸を忘れて生きていた僕をの脚を掴むもの。幸せは、そう簡単には訪れないらしい。

「……ひ、うっ、ああ」

子供みたいに泣きじゃくって、僕はどうしたいんだろう。もうこの世にいない人のために、生きて行く人生を諦めている。お前だけが幸せに……。

「……さん」

無意識にその名前を呼ぶ。
僕を助けてくれた彼の。

「は、はるゆきさん……」

会いたいです。
握りしめていた、スマートフォンの画面を震えながらスクロールする。彼の名前を見つけて迷う間も無くタップした。

呼び出し音が、まどろっこしい。
ただ声を聞くだけで良いから……。

「……もしもし」



何を話したのか自分でもよくわからなかった。涙で声を詰まらせながら、はるゆきさんの名前を呼んだ。時計を見れば深夜三時、迷惑以外の何物でもない。だけど、それでもはるゆきさんは優しく話を聞いてくれた。意味はどこまで伝わったのだろう。ただ、彼は大丈夫を繰り返し、全てはもう夢だったのだからと。

電話が終わった頃、少しカーテンを開けるとちょうど朝を迎える頃だった。はるゆきさんに徹夜させてしまったかな、彼はお仕事だったのに。後悔は止まらず、だけど心の中は少し暖かくて。はるゆきさんの声が好きだ、僕にまだ生きていてもいいよって言ってくれる気がして。大切なスマートフォンを抱きしめて、僕はそのまま少しの睡眠を。あと四日たてばまた彼の顔が見ることができるから……。



誰かの声が聞こえる。乱暴に鍵を開けて大きな足音が飛び込んできた。微睡んでいた僕は飛び上がり、慌てたせいでベッドから落ちた。

「いっ、いたた……な、なんで……?」
「はあ……みつば、大丈夫か」
「大丈夫……え?は、はるゆきさんこそ、なんで帰ってきたんですか」

まだ予定では帰宅は早いはず。けれど、彼はその理由を言う前に、僕の身体を抱きしめた。

「は、はる……?」
「よかった、お前に何かあったらって、俺は……」
「何か、ですか?」
「俺はまだお前と一緒に生きたいんだよ」



しばらくして落ち着いてからの、ベッドに腰掛けた彼との話。
仕事終わりにかかってきた僕の電話があまりに不穏で、居ても立っても居られなくなり予定を早めて帰ってきたと。

「すみません、はるゆきさん。僕は迷惑をおかけしましたか……」
「……構わない、そのためにお前にスマートフォンを渡したんだよ」
「え……」
「どちらが、我慢している。そんなのは恋でもなんでもないだろう?俺はお前の気持ちを知りたかったんだ」

気持ち……彼は何をいっているのか、ただ過去を思い出して、積み重なるそれを吐き出してしまった。迷惑でしかないじゃないか。

「人は一人じゃ生きられないって言うだろう?俺だって一応人間だからな」
「はるゆきさんはお友達いっぱいいるでしょう?お仕事だってしているんだし」
「仕事の知り合いはお友達ではない。俺が心を許せるある相手は少ないんだよ」

そう言って目と目があった。この人は目で会話をするのかもしれない。だってその目があまりに優しくて……。

「そばにいるだけでいいんだよ、出会った時からお前のことを知りたくなった。その悲しげな目の理由を」

僕の目を見たはるゆきさん。僕の心もまた、目で訴えていると言うのか。

「うまく言えないで悪いが、お前が死を選ぶ理由はない。信じられないなら俺のために生きろ、俺はお前を離したくないんだよ」
「どうしてですか?」
「……ふ、みつば、お前は俺にそれを言わせるか?」

そしてはるゆきさんは僕を改めて抱き寄せる。僕を包み込むように優しく、耳元でとてもとても小さな声で囁きながら。

「知らないところはこれから知り合えばいい。わがままだと思ってくれて構わない。俺はお前と暮らして生きたいんだ」



「はるゆきさん、ごはんですよー」

午前五時半、はるゆきさんは今日も仕事。朝ごはんに加えて、今日はもう一つ、お弁当を作ったのだ。

「食べづらかったら残してください。玉子焼きは甘くないんですけど」
「ありがとう、玉子焼き楽しみにしているよ。みつば」

僕にできることはしようと決めた。はるゆきさんが必要としていい
愛してくれるのなら、僕はまだもう少し生きていても構わないんじゃないかって。

「夕方までには帰る、明日は休みだからどこに行きたいか考えておけ」
「はるゆきさんはるゆきさん……それはもしかしてデートのお誘いですか?」
「まあ……そうとも言うな」

そう言って彼は口元をいじる。それがはるゆきさんの照れてる時の癖だってのは最近知ったことだった。

はるゆきさんは静かにドアをあけて、振り向いた。

「いってくるよ、みつば。何かあったら……」

ああ、なんで彼は優しい人。

「はい。いってらっしゃい、はるゆきさん!」

未だ全てを知らない二人。
その生活はまだ始まったばかりだ。
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