例えばこの電車のドアの向こう側にこの世の果てがあるとすれば、出来ることならそのまま落下してしまいたい。目を閉じたら一巻の終わり。今朝もそうなるように願うまま……結局のところは夢物語でいつも通り電車は終点に到着する。

 音を立てたホームドアの向こうには、当たり前だがこの世の果てなどなく、入学したばかりの高校の制服を着た高校生であふれていた。

 いやだ騒がしい、目眩までする。
 押されてぶつかって緩い腕時計のバンドが外れて落ち、拾おうとしたら見知らぬ高校生の足で踏まれ、何処かに行ってしまった。腕時計は別に気に入っていたわけではないし、この左手首が細すぎてバンドにみっともなくも自分で穴を開けていたもの、それも壊れかけの安物だから、仕方がない。

「ねえ」
「……」

 声に呼ばれ振り返れば茶髪でスーツ姿の男。見覚えがあるようなないような……しかしおれは彼の名前なんて知らない。

「腕時計、落としたでしよ」

 そう言って彼が差し出した腕時計は踏みつけられて文字盤が割れている。

「割れちゃったねえ、大事なものだった?」
「……いや」
「代わりにこれあげるよ、ブランドものとかじゃあなくって申し訳ないけれど」
「は? い、いらない……」
「気にしないで、安いものだし。ほらもう遅刻する時間。転ばないように気をつけてね」

 大きな腕時計、使い込んだ色をしていたそれはけれどやっぱりおれの手首では大き過ぎて。あの男はなぜこんな大切そうなものをおれに寄越したのか。返したくてもどこの誰かも知らない男、多分もう会うことなんてないんじゃないか。けれど例えば彼が毎朝この駅を使っているなら、また会えるかもしれない。返そう、その時にでも。

 ◇

 今年の春から高校一年生になった三宮佐知(さんのみやさち)。佐知のさちが幸だったらおれはもっと自分が嫌いだっただろう。それくらいの自己嫌悪感、誰もいらない誰もいない。
 そもそも高校なんて行く気は無かったけれど祖父母がしつこくって、迷った挙句祖父母の家からでは通えない遠い高校を選んだ。生活費に下宿代などお金をかけさせてしまって悪いと思っているが、祖父母の目が離れたいま、その計画は開始した。

 食事なんて、摂らない。

 ひと思いに死んでしまうのは恐ろしいから、こうして何も摂取しないことで少しずつ軽くなって行けば、いつかここではないどこかへ行けるのではないか。それは緩やかな自殺行為でもある。なに、誰も気づきはしないだろう。おれを気にして見ているやつなんかこの世にいるとは思えないし。いるなら仕事柄仕方なく教師とか?あしらうのは少し面倒だけれど。

 高校の授業が始まって、つまらない日々が続いていた。男子校、もうある程度のグループは決まっていて、いつだっておれはどうせ厄介者で外れ者。未だ誰とも会話を交わしていないのだから仕方ない。
大声ではしゃぎ回るその足元を蹴り飛ばしたい。高校生にもなって教室を走るか。

 朝一は初めての数学授業。どちらかと言えば理系、小説の類は文字に隠されたややこしい感情が渦巻いているから。理解なんかしたくないのだ、他人も、自分も。

「はい、静かにねぇ授業始めるけど準備できてる?」

……この声、どこかで聞いた覚えがあるぞ。
左腕の大きな腕時計。あの時笑った男の顔。机から顔を上げて教卓を見る。

「はじめまして、数学担当の森村真希です。まきちゃんでいいよ」

 腕時計の男だった、その森村は明らかにおれを見つけて嬉しそうに手を振った。



「まきちゃんまじかよ、この子貧乳ー」
「こらこら、貧乳だとか馬鹿にしてはいけないよ。全体を見て見なよ、華奢な子じゃん。折れちゃいそ、そこ可愛いじゃん?」

 森村の授業は不愉快でたまらない。あいつ自身まだ若く威厳のないのにくわえ、ノリが軽い。ガラの悪い生徒たちと教室の後ろでグラビアアイドルの品評会なんて。プリント解いている間にするなよ。ああもう集中出来ない、煩わしい。

「三宮くん、そこの数式よくわかったね」

 慌てて振り向くと、おれの椅子に触れながらいつの間にかプリントを見ている森村。
そしてまたグラビア雑誌の話の輪に戻る。見ていないようで見ている、もううんざりだ。

その森村がおれは苦手だった。

「じゃあ今日の数学はこれで終わり、プリントで間違えたところはやり直しておくように。小テストやるからねー」

 採点をしたプリントは九十点。あと二問が解けなかった。

「あっ、忘れてた。三宮くーん、ちょっといい?」

 教室のドアから半分のぞいている森村が手招き。気の進まないまま側に行けばそのまま保健室まで連行される。

「な、なに」
「養護教諭の先生が話があるってさ。俺も同席して良い?」
「なんで」
「君が気になるからだよ」



「先週の身体測定の結果の件で聞きたいことがあってね」

 この男子校は養護教諭まで男だった。図体のでかい男が白衣着て白い部屋で花を飾りながら健康について話すから少し笑う、神部有(かんべゆう)彼は難しい顔をしながらおれを見る。

「最後に一日三食食べたのはいつ?」
「忘れました」
「今朝は何か食べたかい?」
「食べてません」
「お腹空かないの?」
「はい」

 養護教諭は何かを探り出そうとしている。冗談じゃないそう簡単に心の中に入られてたまるか。

「ダイエットなんて興味はないだろうけれど、あまりに体重が軽すぎても問題が起こるんだよ。君の身長にその体重では目眩や立ちくらみもひどいだろう?」

「別に気にならないです、元気なんで」

 彼らは食べることを強制しに連れて来たのだ。だけどおれにはおれの考えがある。真実を言ったなら、それはそれでまた叱られるだろうが。

「あの、次体育なんで着替えたいんですけど」
「見学にしなさい」
「は?」
「いつも見ていたんだけど、この頃ひどく顔色が悪いから。自分では慣れてしまって平気かもしれないけれど、階段、駅のホーム、気をつけないといけないよ」

 そしてようやくおれは保健室から解放される。体育は見学で良いって。合法的にサボれるならサボってしまおう。確かにこの頃立ちくらみや目眩が酷い。

 早々に保健室を後にする。廊下においてある鏡には確かにひどく痩せた情けない少年がいる、目つきが鋭いのがコンプレックスだった。それはあまりに母親に似ている、まるで悪魔のような顔。
 嫌いだ、こんな自分大っ嫌いだ。自分だけじゃなく、おれの周りにいる誰も彼もみんな大っ嫌いだ……!

 ◇

 昼休みになってもおれの居場所なんてない。少し席を離れた間に名前も覚えていない同級生が、おれの席に座って隣の席の友人と馬鹿笑いして机の上に足まで乗せている。おれが戻ってきたことなんて気づく様子はない、外に行こう、誰もいない静かなところが良い。
 騒がしい廊下を抜けて、職員室も通り過ぎ、体育館の裏側まで来た。たまたま古びたベンチがあったからそこに腰掛けたら、ようやく一息つけて泣きそうになった。結局のところ対人関係だってダメなんだ。
誰も彼も、おれを邪魔者扱いする。孤独は深まる一方で、それもこれも全ては母親が原因だ。シングルマザーなんて言えばまだ聞こえは良いが、結局母でなく女であることを選んだ。木造のボロアパートの一室では幼い頃から内縁の夫が入り乱れて、おれは愛がわからなくなる。やがて母は男のあとを追って消息を絶った。それはおれが中学生になる頃で、行く場所を失ったおれはそのまま祖父母に引き取られ今に至る。

「あれ三宮くん、そんなところで何やってるの? 誰かと待ち合わせかな」

 突然の声にベンチから立ち上がる。その声の主は森村真希、どうしてこんなところに。

「早いねえ、もうお昼ご飯食べたの?」

 森村は無断で容赦無くおれの隣のベンチに腰掛けて、ガサガサとビニール袋の中からパンを何個も取り出した。

「学食のさ、カレーパン知ってる? あれね、この学校の名物。すっごい美味しいんだよ。もう食べてみた?」
「いや……」
「マジで? はは、じゃあ一個あげるよ。ほら食べてごらん」

 そう言って森村が取り出したカレーパンの袋、腹が空くどころか吐き気がする。思わず立ち上がり、息を飲む。

「どうしたの、ほら食べなよ」
「い、いらない」
「なんで?」
「……気持ち悪い」

 ここしばらくろくに食事を摂らずにいたら食事を受け付けなくなってしまった。それは望んだことだとしても、気分の悪さはどうにかならないか。

「おいで、座りなさい」
「……い、良い」
「良くないから言ってんだよ、座れ!」

 森村の強い調子の言葉を初めて聞いた。彼は袋を脇に置いてそのままおれを抱き寄せる。ベンチに横になったら途端に目眩がひどく砂嵐、吐き気を抑えるためにただ長く深呼吸を繰り返す。

「全く、いつから食べてないの? これここ数日のことじゃないでしょう。こんなに痩せてよく倒れないよね。その辺の小学生の方がちゃんと体重あるよ」

 森村はおれのネクタイを外して、ワイシャツのボタンも外す。骨のくっきり浮いた胸元を睨みつけて、そのまま小さくため息をついた。

「ねえ、三宮くん。食べることは生きることってさ、知ってる?」

 そんなの、知ってるよ。
 だからおれはここまで来たんだから。

 ◇

 そのまま半ば強引に森村に抱きかかえられて連れ込まれ、午後は保健室で過ごした。神部が何やら聞いてきたけれど気分も悪いし煩わしくってほぼ無視をして。近頃夜になれば眠れないことが多く、朝まで起きていることなんてザラな日々。そのおかげか保健室のベッドは寝心地よく久しぶりにゆっくり眠れた気がした。目が覚めて何時か確かめようと左腕を見れば大きな時計。森村のものだ、ああ、そうだこれを返そうと思っていたのに……。

「三宮くーん、起きてる?」

 ひょいとカーテンの隙間から森村が現れた。目があったのを良いことに遠慮なくベッドの隣まで。

「よかったね、少し顔色良くなったみたいだし。荷物持ってきたよ、帰ろ?」
「え……」
「もうホームルームも終わってね、俺もたまたま今日の仕事早く終わったから。今日は車通勤だし家まで送ってあげる」
「いや……」
「一人で下宿してるんだよね、無事家に帰れるか心配してるんだよ」

 変なやつ。
親でもなければ家族でもない、そんな俺を家まで送るなんて。

「良い、一人で帰る」
「行き倒れても知らないよー」
「……帰る」

 無理矢理に森村を押しのけようとするも、布団を持ち上げるのでさえ息が切れた。震える腕で支えながら身体を起こそうとしても重く、目眩が強く目を開けているのも精いっぱい。

「そこまでして一人で帰るっていうなら、今ここで神部先生に付き添ってもらって病院受診するよ」
「い、いや……」
「じゃあ一緒に帰ろう」

 そう言って森村は俺の肩を支えながら荷物を持って薄暗い放課後の廊下をゆっくりと歩いて行く。見慣れないはずのその横顔にどこか見覚えがあったのは、多分なにかの空似なのだろうけれど。

 森村の車は黒のミニワゴン、後ろの席で横たわればくらくらした頭に血が戻ってきたのかじわりと顔が熱くなる。動き出す車、ハンドルを扱う森村は教室で生徒とはしゃいでいる姿とは違って、日々に冷めている大人の顔をしていた。

「一人暮らしだとどうしても食事がおろそかになりがちだけどね、ちゃんと食べた方がいいよ。倒れてからじゃ遅いことってあるし」

 またその話、説教なんかもうたくさんだ。

「君が自分を大切にしてくれないと困るんだけどなあ」
「……誰が?」
「俺だよ、もちろん神部先生だって同級のみんなだって」
「嘘だ」
「それを決めるのは三宮くんじゃないでしょう」

 カーステレオからは聞いたことのない洋楽が流れていた。信号の色を超えてトンネルに入れば車内の色はきらきらとミラーボールのように見える。そしてしばらく走れば窓の向こうは見覚えのある景色、自宅アパートまではあと少しだ。

「……お母さんからはずっと連絡ないの?」
「……」
「ごめん、嫌なこと聞いたね。でも俺の見てきた中で今にも先にも彼女のように美しい人はいなかった。君はその遺伝子は継いだようだね」
「は……?」
 思わず息が詰まってむせた。
 母の行方を知らない、その母の写真すら誰にも見せたことはないのに?

 森村の横顔は無表情。
 何故こいつが母のことを知っている?

 ◇

「じゃあ何か少しでも口にして、よく寝るんだよ。また明日な、おやすみ」
「……どうも、すみません」
「いつかまた改めて家庭訪問させてもらうよ、そしたら親子丼作ってあげよう。俺の得意料理ね」

 森村は母のことなど口にせず、おれもどこか戸惑ってしまって聞くことも出来ないままで、彼は帰っていった。ドアを閉めて、靴を脱いだらそのまま玄関に横になる。あんなに保健室で眠ったはずなのにまだ睡眠が足りてないのか……。

 食べることは生きること。
 今夜は少し何かを口にしても良い気した、けれどいざとなればよくわからない罪悪感が邪魔をして、結局冷蔵庫の中にあったスポーツドリンクだけを口にして眠ることにした。

 泥のような眠りの中で、誰かがおれの名前を呼ぶ。答えたくて手を伸ばせば空を掴むだけで、久々に泣きながら目を覚ました朝だった。寂しいなんて感情は、まだおれにも残っていたらしい。



「おはよー三宮くん」

朝の満員電車に揺られていると、人混みに紛れて森村が。今日は車通勤ではないようだ。

「春とは言え人が多くて暑いね、大丈夫?」
「大丈夫……」
「もう、大丈夫そうな声じゃないじゃないの。おいで寄りかかっていいから」

苦笑した森村はおれの手首を握る。その細さに笑った目は少し鋭くなり、黙って空いている通路までひきよせた。

「昨日はあれから何か食べ物口にした?」
「……」
「それで今朝も何も食べてないんでしょう?全く困ったねえ」

ため息をついた森村はおれの手首を握って離さない。学校最寄りまであと数駅、暑いうえに立ちっぱなし。その瞬間、ざっと血のひく感覚に脚の力が抜ける。慌ててそばにあった手すりにつかまるも、目の前が暗くそのまま倒れる寸前。そのおれに気づいたのは隣にいた森村だった。

「三宮くん、どうしたの」
「あ、あしに力が入らなくて、倒れる……」
「ちょ、大丈夫?こっちに寄って……三宮!」

一面の砂嵐、その後は全てが曖昧で覚えていない。



電車の走る音がする……駅のホームは涼しくて、ようやくあたりは平静を取り戻しつつあった。おれの肩を抱くのは、森村。彼はおれの意識のあるうちに抱き寄せ停車した電車から駅のベンチへ。

「大丈夫?」
「……はい」
「もう、全然大丈夫な顔してないじゃないの……まあ自己管理をとか言うけど、十五歳の君一人のせいにするのは俺は嫌でね。良いよ、落ち着くまでこうしていようか」
「……遅刻」
「いまはそんなこと気にしてる場合じゃないよ。君はその真っ白な顔をどうにかしなさい」

耳鳴りがして世界が遠い、これをどうにかしろって言われても……その時森村がおれを膝に寝かせる。戸惑ったものの抵抗する力はもう残されてはいなかった。



「佐知、向こうに行ってなさいよ」

そう言って真冬にもかかわらず、母はおれを家の外に出した。お客さん、がいるときはいつもそう。そしてお客さんはいつも若い男だったということ。雪の降る中じっとドアの前で目を閉じた。寒くて凍え、お腹も空いた。だけど人通りなんてなく、誰もおれのことを呼ばなかった。
その母がおれを裏切るのはそれからしばらくの後のことだった。



結局一時間の遅刻で登校した。おれはともかく森村はきっと怒られるだろう。左手の時計はまだ返していない。返さないと、って思うのだけれどついどこか寂しくて……。
そんな森村は今日も授業中にふざけ、騒いでいる。
森村という男はどんな人間なんだろう。ふざけつつも周りをよく見ていて、時におれの心を覗き込む。勘が鋭いのだろうか、そんな彼がおれは少し怖かった。言いたくもない心の中のたくさんのことを思いださせるようで。

「じゃあ小テスト始めるよー、静かに。チャイムが鳴ったらおしまいな」

教室中がペンを走らせる音だけであたりは静まり返った。授業で習ったところだけだからそれほど悩みもせずに、早々に終えて顔をあげたらおれを見つめている森村と目があった。森村はおれを見て少し笑う、いつから見ていたんだろう。気まずくなって目をそらして外を見ればいつのまにか空は暗くなり雨が降り出した。

雨の日は嫌いだ、……昔を思い出すから。



母がまだ帰ってこない。
いつもなら仕事も終えて帰ってくるはずの深夜、しかしいくら待っても足音すら聞こえなかった。午前三時、もうすぐ朝になる。明日は小学校だったけれど寂しくて眠るどころではなくて。真っ暗な家の中よりは月明かりの外の方が怖くない。

「なにやってんのよ、佐知」
「あ……」

母だった、しかし随分と酔っ払った様子で隣の若い男に支えられながら歩いている。

「こんばんは」
「こ、こんばんは……」

母よりいくつ年下なのだろう、まだ大学生くらいに見える彼は愛想が良く、おれの頭を優しく撫でる。そしてそのまま家の中へ。
おれがどうしたら良いのかわからず戸惑っていると彼は部屋の中から手招き。

「ずっと外にいて寒かったでしょ?風邪ひくからおいで」

いつも追い出されてばかりだった、だからおれはどうしたらわからずに下を向いたまま部屋の中へ。母は敷きっぱなしの布団の上でいびきをかいて眠っていた。

「何歳?」

母に布団をかけた彼はおれに問う。

「八歳……」
「小学生かぁ、学校楽しい?」
「あまり楽しくない、お母さんのせいで誰も遊んでくれないから」

近所でも母のだらしなさは伝わっていて、多分親に言われているのだろう。同級生は誰もおれと遊ぶどころか遠巻きに見てろくに話さえもしてくれなかったから。

「俺も学校楽しくないんだ、俺は誰にも本当のことが言えなくてさ」
「本当のこと?」
「誰が好きとか嫌いとか、なにをしたくてしたくないとか……心の中のことだよ」
「それ、言ったら怒られちゃうの?」
「まあね」

居場所のない、ふたり。
二枚しか布団がなかったから彼の隣で眠ることに。名前は知らないけれど、いままで母が連れ込んだ男の中にはいないタイプ。おれの目を見て話してくれたから。



翌朝、目が覚めるといい匂いがした、昨晩の彼が何か料理をしている。

「おはよ、朝ごはん作ったから食べようか?」

朝食なんて滅多に食べたことはなかった。母はいないか寝ているかで、一人で起きて身支度をして家を出る。いってらっしゃいの一言なんか聞いたことなんてない。それが普通の出来事だった。

彼の作った朝食は白米と味噌汁と玉子焼き。あり合わせのもので材料がこれしかなかったからと。湯気の立つ味噌汁は、口にすると身体に染み込んで行くようで、涙が出てくるから下を向く。一方で彼も静かに食事を進める、給食は一人で食べていたから、誰かと一緒に食事をすることがこんなに温かいものだって初めて知った。



「邪魔だ、どけよ」

教室の隅で椅子を蹴られる。最近目をつけられた同級生数人。おれの反応がみたいのか、脅すようなことを言ってはゲラゲラと笑う。

「汚ねえ家に住んでさ、その服だっていつ洗ったやつ?」

そう言って背中を蹴り飛ばされた、息が止まる。周りの同級生たちはヒソヒソとこちらをみては笑うだけ。その時教室に教師がやって来て、同級生はパッと散った。痛む背中、だけど誰にも助けてなんて言えなかった。

「おかえりー」

自宅アパートの前では昨晩の彼が待っている。

「お母さんは?」
「仕事だってさー、俺とお留守番してよ」

そう言って笑顔の彼、今日あった嫌なことをその笑顔だけで忘れられる気がした。

「夕飯の買い物に行こうか?」

彼の後について、近所のスーパーまで。夕方のセールで混雑する店の中、彼を見失わないように後を追って。

「サチ、こっちだよ」
「え……」
「違ったっけ? サチって名前なんだよね」

名前を呼ばれたのも随分と久しぶりのこと。おれも彼の名前を呼びたくて、でもなんて聞いたら良いのかわからない。

「おいでー、サチ。お兄さんと手を繋ごうか?」
「て、手はいい……」
「あはは、男の子だから恥ずかしいか」

夕食は親子丼。おれも手伝って、玉子をかき混ぜたのを覚えている。

結局その日の夜は母は帰ってこなくて、彼と二人で眠ることにした。だけど、今日はまだ眠くならない。隣を見たら、彼もまた眠れないのかこちらを見て笑った。

「眠れないの?」
「うん」
「……サチって良い名前だよねえ。幸せって漢字の違う読み方だよ」
「そのサチじゃない……」

おれは自分の名前が好きではなかった。響きだけでは女みたいで。

「サチが幸せになってほしいから、お母さんはサチって名前にしたんだと思うよ」
「幸せじゃないよ、全然」
「そっか、じゃあいつか幸せになれると良いね。俺には何もできないけどさ」

その言葉、彼も何処かに行ってしまうのだろうか。お父さん、という年齢ではないけれど、彼が近しい関係になってくれたらよかったのに。

一人が寂しい、そう思うだけで涙が出てきた。彼はそっと泣き出したおれの頭を撫でる。左手には腕時計、寝ている時にも外さないそれは大切にしているものなのだろうか?



「汚ねえやつは学校来るなよ」

翌朝、登校途中に件の同級生と会ってしまった。道の端を歩くも囲まれて、ランドセルを蹴られその場に転んだ。また笑ってる、おれはそんなに恥ずかしいことをしているのか。目を閉じて全てを諦める。

「おい、なにやってんの!」

その声で囲んでいた同級生たちが突然散った。

「全く子どもとはいえ低レベルないじめをするんじゃないよ」
「あ……」
「大丈夫?サチ」

助けてくれたのは彼だ、おれを見てにこりと笑う。

「ああいうことをするやつのことは、怖い先生にでもいいつけてしまいなさい。サチは悪いことなんてしていないんだからね」

その瞬間に、おれはその場で座り込んだまま大声で泣いた。誰もわかってくれなかったおれのこと。助けてって言いたいのに言えなくて……。
彼は黙ってしゃがみこみ、おれの頭を撫でて笑う。大丈夫だよって繰り返しながら。



その晩も帰ってこない母を待ちながら彼と一緒に寝た。彼はいま大学生で、学校が楽しくないのと、家に帰るのも好きではないと。おれよりも大人なのにそんなことを言うなんて情けないから内緒だよ、そう言って優しく笑った。

「お兄ちゃん……?」

話しているうちに眠ってしまったのか、気がつくと朝が訪れていた。
隣には彼はおらず、化粧も落としていない母が座ってタバコを吸っている。

「あの男なら出て行ったわよ」

そう一言言って、母は壁に灰皿を投げつけた。灰皿は鈍い音を立てて二つに割れる。

窓の外は雨、薄暗い部屋の中でおれは誰よりも永遠の孤独を取り戻していた。



「はい、テスト終わりー。後ろから前に回してね」

一斉に騒ぎ始めた教室内、チャイムとともにテストは終わり回収の終わった森村が伸びをする。もう昼休み、でも外は雨が降っているから一人で過ごすのにいつものベンチが使えない。

とりあえず廊下へ、そこでは授業の荷物を持ったままの森村が待っていた。

「昼休みどうする?」
「は?」
「ほら、雨だから外でご飯食べられないでしょ?学食でも行ってみようよ、騒がしいけどメニュー豊富だよ」
「い、いら」
「いらないはナシね。今朝倒れて身にしみたでしょう、おにぎり一個でもだいぶ違うと思うけどなあ」

そう言って森村は隣を歩く。担任でもないのに、近頃では彼がこの学校で一番親しい教師になってしまった感がある。

「まだ気分悪い?」
「少し」
「辛いならご飯食べたら保健室寄って昼休みの間だけでも横になっていても良いと思うけど」
「面倒だから、いい」

学食は人で溢れている。それだけで気分が悪くなり、気づいた森村が隣の購買によっておにぎり一つを買って戻ってきた。

「大丈夫?」
「無理……」
「保健室行こう。神部先生もお昼ご飯食べてると思うし」

しかし保健室には誰もいなかった。森村は神部の留守に勝手に入り、空いているベッドのカーテンを開ける。

「おいで、三宮くん。少し横になってなさい、おにぎりも食べられたら食べてさ」

整えられた白のシーツ。良いのかな、と戸惑いつつも横になれば起き上がることなんて当分出来なさそうだった。
雨の音が静寂を誘う、まだ昼休みだっていうのに。

「ねぇ、なんで君はご飯を食べないの……」

耳元で呟くような森村の声、いまなら言えるかもしれない。本当のことを。

「生きることを、やめたいから」

怒られるかと思って構えても彼はそれから言葉を紡ぐことはなかった。
視線を感じつつも雨音がだんだん大きくなっていって、おれはそのまま眠りについた。



それからの母は相変わらず機嫌が悪く、暴力は振るわなかったものの意図的におれを無視をする。孤独に戻ったおれのこと、家でも学校でもひとり。そんな日々が続いた数年後、中学生になった頃に母は失踪する。

彼にはもうあれきり会うことはできなかった。ほんの数日、そばにいてくれた"お兄ちゃん"。今頃どこでなにをしているのだろうか……。

そして引き取られた先の、いままでろくに会うことのなかった祖父母は厳しかった。けれど母とは違い、おれのことに良くも悪くも興味を持ってくれてそれだけで生まれて初めておれの心は少しだけ救われたのは覚えている。



「三宮くん、調子どう?」

その声に目を開けると神部が白衣のポケットに手を入れて立っている。

「……」
「森村先生?先生は授業中だよ。今六時間目」

昼休みだけって思っていたのに、いつの間にかそんな時間になってしまった。いまから教室戻るのも疲れるし、でも帰るなら荷物を取りに行かないと……。

「もう少しで授業終わりだからまだ寝てなさい。ホームルーム出られたら出て、今日はもうそのまま帰って……あ、そうだ」

神部はポケットの中からおにぎりを取り出した。

「森村先生から、君が起きたら食べさせってさ。梅干しだし食べやすいよ」

生きることを、やめたいから。
あの言葉を森村は聞いたはずだ、それでもまだおれに生きろと。

このおにぎりひとつ食べたら、なにか変わることはある?

おれは生きてどうしたいのだろう。
そばにいて欲しいのは……誰だ?

「どうぞ」

神部に手渡されたおにぎり。そっと封を開けて口にすると懐かしい味が広がった。
あの日、朝ごはんを作ってくれた彼……生きることは、食べること。

知らないうちに涙が出てきた、嫌だ、神部の目の前で……だけどおれももう少し生きてみたら、何か見えてくることがあるのかな。

神部は何も言わずに保健室から出て行った。おれは涙をぬぐいながら、心にたまった孤独と悪夢も涙と共に流して行くように。



授業終わり、教室に戻るために廊下を歩いていると突然誰かに後ろから目隠しをされた。

「三宮くん、おはよ」
「……どうも」

森村はいつもの調子で、振り向いたおれに満面の笑み。

「おにぎりちゃんと食べたって?えらいねぇ」
「……」
「別に馬鹿にしてるわけじゃないよー、おれは嬉しいんだよ」

その笑顔がどこかで見覚えのある気がしたのは気のせいではない。

「また一緒に親子丼作ろうね、今度は玉ねぎ切ってみる?サチ」
「……ばか」

放課後の廊下の雑踏の中、それは月日を超えた過去との再会だった。
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